最近一番、残酷だな、と感じたニュースを思い出してみてください。
命が奪われた時、しかも無慈悲なやり方で奪われた時、多くの方は「残酷だ」と言うでしょう。
これは私のごく身近で起こった、残酷な”殺し”のお話。
ただし、殺されたのは人ではなく、鶏。
殺したのも人ではなく、蛇。
そう聞いて、どう思いましたか?
安心しましたか?
なぁんだ、と思いましたか?
大げさだ、と思いましたか?
犯行現場は鶏小屋。
被害者は生後二ヶ月弱の幼い鶏。
時刻はお昼少し前。
犯人は1.5mクラスのアオダイショウ。
現行犯逮捕するも、鶏は既に死亡していました。
凶器は蛇の胴体。
体長20cm程の鶏に、1.5mの大蛇がグルグルに巻きついて、絞め殺したのです。
現行犯逮捕したのは、私自身。
犯行現場を目の当たりにした時、起こった感情は、「なんて残酷な」ということでした。
一日中、犯行現場の光景が目に焼き付いて離れず、亡くなった鶏のことを思い出しては悲しく、助けてやれなかった自分を悔いていました。
そしてその日の晩、夕飯を作ろうとしていた時、キッチンに置いてあった卵を見て、あることに気づきます。
『あれ、もしかして、鶏からしたら、蛇も人間も大して変わらないんじゃない?』
せっかく産んだ卵をくすねていって、食べてしまう。蛇も人もおんなじ。
せっかく育った鶏を殺して、食べてしまう。蛇も人もおんなじ。
あれ?じゃぁ昼間の蛇は残酷?
だとしたら、私たちも残酷???
たぶん、残酷なんだと思います。
ただ、普段はその現場が見えないから、都合よく忘れてしまえるだけ。
自分たちが生きるために、他の命をいただくのは必然です。
それは、蛇も人間もおんなじ。
蛇は、命を絶つ残酷な現場を自ら背負って、自らの命を紡いでいるだけ。
人はその残酷な現場を人任せにしているから、残酷でないフリができるだけ。
蛇を悪者にして自分は被害者ぶるなんて、とんだ偽善だったと気付かされたわけです。
自然に近いということは、命の連鎖を目の当たりにするということ。
それは辛くもあり、命と向き合う大切な経験でもあります。
それを”残酷”というのなら、生きるとは残酷なことなのでしょう。